播州織は、寛政4年(1792年)に比延庄村(西脇市比延町)の宮大工「飛田安兵衛」(ひだやすべえ)が京都西陣織からその技術を持ち帰ったのがはじまりだと伝えられています。
史実によると明治維新当時、津万郷(西脇市津万)を中心に60~70戸の織布業を営んでいたとあり、すでに企業地としての条件を備えていたようです。製品の傾向としては、第一次世界大戦までは国内向け着尺地(バンタツ)を専門としていましたが、戦後は海外市場に目を転じ、東南アジア向け先染織物の販路拡大に成功し、これを契機に輸出向け専門の産地に転換しました。
昭和に入ると業者数、生産額が飛躍的に増大し、支那事変勃発前後には、多彩な品種で年産一億平方ヤードに達し、業者数 270軒、織機台数 8,300台を数え、第一次黄金時代を築き上げました。その頃、織機が一度"ガチャ"っと音がしたら一万円儲かると言われた「ガチャ萬」時代でした。
第二次世界大戦後は、開発途上国との競争を避け、高級綿布生産に産地機構全般を再編成し、昭和29年頃よりアメリカ市場の開拓に成功すると共にカナダ・オーストラリア・中南米・アフリカから欧州の一部まで販路を拡大し、ほとんど全世界市場を商圏として第二次黄金時代を迎えました。 昭和38年頃より、これまでの綿スフー本やりの保守的かつ画一的な生産形態が徐々に改善され、化合繊ギンガム、化合繊ドビー、麻混などの各種新製品が開発されて、国際市場における競争力も一段と強化されました。
昭和40年代以降は、ドルショック、プラザ合意などの円高を契機として輸出中心の当産地は大打撃を受けたため、内需品拡大に注力し、また繊維産業構造改善事業により従来の力織機から革新織機に移行し、年間生産量も大幅に伸び、多品種・小ロット・短納期にも対応できる強靱な生産体制が形成されました。
21世紀をむかえ、これまで幾多の困難を乗り越えてきた「播州織」は、再び栄光を目指して新商品の開発とITを駆使したQR対応に産地あげて懸命に取り組み、この地からファッション・テキスタイルの最新情報を発信できるような創造性豊かな産地づくりに努力しています。
播州織の特徴は、まず糸を各種の色に染め上げ、この色糸を使って様々な模様に織り上げる先染織物という手法にあります。先染織物はカジュアルシャツなどに用いられるチェックやストライプの縞柄に代表され、これに対してワンピースの花柄やプリントの生地は後染織物と呼ばれます。
先染織物は、染色した糸が縦(経)と横(緯)に組織という法則に従って織られており、この糸・縞割・組織・密度を組み合わせることによって、様々なチェックやストライプなどの柄を生み出します。